余命について考える

このところNetflixで【グッドプレイス】なるシットコムを見ています。ろくでもない死に方をした主人公が、善人が行きつく「いい所」に来てしまって、何度も死後の世界や地上に送り返されながら”善行”を積んでいくコメディです。

なん百何千とやり直しをしていく主人公たちを見ているうち、おやわたしはもうあちらの世界が近いんだぞと、気づいてしまいました。

もうじき息子は5歳になります。過ぎてしまえばあっという間の5年間です。
でもこの5年単位を、この先そんなに繰り返すことはできないのです。

こどもを育てていると、ひととは本当に砂粒のように些細なものごとを、ただただ積み上げていくことで育まれると実感します。そこに注がれた心血はほとんど顧みられることがない。けれど砂粒を積み上げることでしか、ひとを育てることはできない。

そしてようやく気付きました。これは子育てのみならず、自身に対しても言えることなのだと。

わたしは目先の努力はとても得意でした。先が見えなくても耐え忍ぶことができました。その代わりこころの底が抜けました。脳の機能も一部失っている自覚があります。

こどもを生んでから日々の砂粒を積んでは崩す中で、人生で初めて「自分は悪くない」と言えました。
わたしは息子を育てると同時に、自分を育て直させてもらっていたのです。


わたしがこの先息子にできるのは、母が不在でも「大丈夫自分はお母さんの宝物だし」と思えるようなメンタルお守りを授けること。これに尽きる気がします。
あとはこういう仕事をしている人間として、息子が楽しめるもの、誇りに思えるものをつくること。

さて今日も砂粒を、息子と自分のために積むとします。

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